三毛犬ジョニーへの伝言

旧「自堕落な蟻」 ブログ名変えました。ジョニーは昔飼っていた可愛いビーグルの名前です。

「ネコババのいる町で」 瀧澤美恵子

わずか三歳で、ロスアンジェルスから一人で日本に送られた恵里子。実の母に捨てられたショックで一時的な失語症に陥ってしまうが、ある日、隣の「ネコババ」の家で突然言葉を取り戻す。生みの親よりも「本当の家族」となった祖母と叔母に育てられた多感な少女が観た人間模様を描く芥川賞受賞の表題作ほか二篇。
(アマゾンの紹介文より)


主人公の恵理子の人生は、苦難から始まります。
彼女の奔放な実母は、アメリカ人の夫との新生活に連れ子の恵理子が邪魔になり、たった三歳の恵理子を荷物のように飛行機で日本の母(恵理子の祖母)の元へ送りつけます。三歳の子をたった一人で。
日本の祖母と叔母はいきなりやってきた日本語を話せない幼児に戸惑いますが、それなりに生活が安定してきた二年後に、実母は唐突にアメリカに恵理子を送り返せ、といいます。
でもすでにアメリカの新しい家族の中に自分の居場所を見つけられなかった恵理子は、彼女を疎ましく思ったらしい実母に、たった二か月でまた荷物のように日本に送り返されてしまいます。

五歳の恵理子はショックから失語症になってしまいます。
ネコババとそのおじさん(旦那さん)は、恵理子を養女に貰おうかと思うほど可愛がっていましたが、彼女に過度に構うことなく、かといって放任もせず、ちょうどネコババの家で飼われている猫たちと同じように、恵理子に接します。

恵理子が言葉を取り戻すきっかけは、祖母宅の隣のネコババの家で、猫の死骸を見つけたことでした。

最初は迷惑がっていた祖母や叔母も、次第に親しみ、奇妙な三人家族の生活を送るようになります。
恵理子より17上の叔母は、美人なのに男運が悪く、それを恵理子のせいだと八つ当たりしたりと、かなり子供っぽいところのある女性です。
この叔母と恵理子は、まるで年の離れた姉妹のようです。

高校生になった恵理子は意を決して実父に会いに行きますが、冷たく迷惑そうに追い返されてしまいます。
恵理子はそれでも自分を憐れんだりしません。父も母も、会うことがなくても一緒に暮さなくとも、ただ「いるだけ」でいい、というのです。


平成元年の芥川賞受賞作です。発表されてすぐに読んだ記憶があります。
私は猫好きなので「ネコババ」というタイトルに惹かれたのです。

しかし、猫がたくさん出てくる癒し系のお話かとおもいきや、とても気の滅入る小説でした。
お話自体は主人公の周囲に人たちとの関わりや精神的成長やを描いていて、決して重苦しいものではないのですが、主人公の実母の恵理子に対する仕打ちが、どうにも許しがたかったのです。腹立たしくてどうしようもなかったのです。

読後20年たっても、この小説の事をふっと思い出しては腹を立てていました
私のトラウマ小説の一つです。
いまひとつ記憶に残りにくい芥川賞作品の中にあって、それだけ印象深かったということではありますが。


いま読み返してみると、主人公恵理子について、また違った印象を受けました。

子供は親を選べません。この母の子に生まれてしまったのは、恵理子にとって不運極まりないものです。

でも、子供の世界は成長するにつれてどんどん広がっていきます。
友達であったり、先生であったり、ネコババのような近所の人たちであったり、彼女に関わるに人たちも増えていって、生まれついての「ハズレクジ」だった親の占める面積は、彼女の中でどんどん小さくなっていったはずです。

恵理子が作中で繰り返し「自分は不幸じゃない」というのは、強がりではなく本心からでしょう。
血の繋がりのない(あるいはあっても親より薄い)周囲の人たちとの関わりで培ってきた信頼や絆が、彼女のバックボーンにはあるのだと思います。

親がいない=不幸、というのは、思い込みにすぎません。


成長した彼女がネコババの甥の息子と結婚する時、祖母から知らされたらしい(主人公とは没交渉)アメリカの実母は、結婚式には身内が身に付けていた青いものを付けると幸せになれるというから、と恵理子にトルコ石のイヤリングを送りつけてきます。

以前読んだときは、私はここで、作中の人物である恵理子の実母に、ものすごく腹を立てたのです。
ほったらかしにしておきながら、大人になったころに存在をアピールする厭らしさ。無神経さ。

私が恵理子なら、「リアル」の高橋君みたいに、「おやおや、まるで親みたいなことをいいますね」と的確無比な嫌味を書き添え、送り返してやりたい。。
大体サムシング・ブルーは、イヤリングなどではなく、もっと目立たないものにするのが普通だし。
長年ほったらかしにしたお詫びの気持ちが僅かでもあるなら、トルコ石などという安価な宝石ではなく、ブルーダイヤだろ(不吉か)。
この母親の天性の鈍さに、何か一矢報いてやればいいのに、と。

でも恵理子は叔母さんの用意してくれた衣装に合わないから、と身に付けず、その先も一度も使わず、そのトルコ石イヤリングをしまいこんでしまうのです。
イヤリングは単に、そういえば一応母親がいたな、と確認するだけのためのものなのです。
実にあっさりと、このみみちい贈り物を、スルーするのです。

今読み返して思います。
「復讐したい」「相手を傷つけたい」と恨みに思うこと、そこまでいかなくとも怒りの感情を持ち続けるのは、裏を返せば自分に関心を持ってほしい、と、相手の愛情を乞う気持ちが心の隅にあるからです。

恵理子は、もうとっくに心の中で母親を捨てているのです。
恵理子には自分を育ててくれた家族や、自分の子のように目をかけてくれた隣人もいる。
成長していく上で、諸々の出来事を客観的に見る目も養ってきた。

もはや実母は彼女にとって何の関心もない人間なのです。
恨みごとをいうほど彼女に愛情を持っていない。怒りを持ち続けるほど不幸な育ち方をしてはいない。

でも自分が親になった今思います。
恵理子にその意識はなくとも、多くの親にとってこれは、これ以上はないほどの復讐です。
自分のことしか考えないこの実母は、気付かないのかもしれないけれど。

叔母さんが死んで「天涯孤独になった」と感じた恵理子は、終盤アメリカにいる実母に子供と夫を連れて会いに行ってみようか、とふと思います。
相次ぐ肉親の死で、心が弱くなっていたからでしょう。

でも物語の先を勝手に推測するなら、恵理子は決して実母に会いに行くことはないと思います。
彼女にはもう、新しい家族がいるのです。
「外れクジ」だった生まれた家庭と違い、自分で育て、築き上げていく家庭です。
縁戚となったネコババもいます。
実母に救いを求めるほど、彼女の将来は不幸なものにはならないはずです。


あと気になる点といえば

猫の話だと思って手に取った人、きっと私だけではないですよねw
それはさておき、もっとネコババを話に絡ませて欲しかったです。

ネコババの出番が少なくて、ちょっと「タイトルに偽りあり?」と思ってしまいました。

叔母さんよりも、むしろ血の繋がりのない隣人であるネコババを、もっと主人公の成長に絡ませてほしかったです。

淡々と平易な文章で物語が進み、祖母、叔母さん。ネコババ、ネコババの旦那さん、実父・・・といろんな人が主人公とかかわっていくのですが、いま一つピントが合っていないというか、曖昧な印象を受けてしまうのも確かです。

でも、印象深い芥川賞受賞作品です。

ネコババのいる町で (文春文庫)ネコババのいる町で (文春文庫)
(1993/03)
滝沢 美恵子

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「白い影法師」を知ってますか?

うだるような暑い日、小学校でPTAの集まりがありました。

ちょっと休憩してお茶を飲んでいたときに、誰からということもなく、話題が「怖い話」に移行しました。

やはり暑い夏には怪談です...、って私は実は超怖がりなんですが~。


リアル怖い話(や~め~て~)がひと段落したあと、

いつも穏やかで上品なお母さんが

「あのマンガ、怖かったなあ。白い影法師!」

それに続いて他のお母さん方も

「みないすずえの!(みうちだよ!)」

「机の下から女の子がどーんと!」

「怖かった怖かった!」

と、続いたのです。


みんな、あのころマンガ読んでたんだ。

少女マンガを読んで育ったんだ。

私は今でもマンガ読んでる中毒者だけど、こんな上品で良識のありそうな奥様方が、マンガを読んで育ったんだ。


と、おばさんオタクの私は、お母様方が急に身近に感じたのでした。


お母様方のマンガ談義は終わらず

「黒百合の系図も怖かった!」


「洗礼も怖かった。あの女の子の脳みそを・・」

「恐怖新聞もうしろの百太郎も・・」

と、もはや少女マンガの範疇を超えてきました。


そうか。みんなマンガ好きなんだな~と親近感を覚えた矢先

「そういえばあのころの漫画家さんってどうしているんだろう」という話題に移行。


私が美内すずえは「別冊花とゆめ」にて「ガラスの仮面」連載中。今休載。

萩尾望都は「フラワーズ」にて現役。

最近震災と原発をテーマにした「なのはな」を刊行し、各所で話題に・・。

などと説明したら、若干引き気味になってしまったような。。。


今でも私、マンガ好きです。

足を洗えないです。

だって、年をとっても面白いものは面白いもん。

「白い影法師」、また読んでみたいな。

白い影法師 (ミミKC)白い影法師 (ミミKC)
(1976/03)
美内 すずえ

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黒百合の系図 (白泉社文庫―美内すずえ傑作選)黒百合の系図 (白泉社文庫―美内すずえ傑作選)
(1997/09)
美内 すずえ

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「愛の年代記」 塩野七生

イタリア中世末期からルネサンスにかけての、様々な恋愛のかたちを描いた短編集。

高校生の頃、初めてこの本を読みました。

勿論20年以上たった今では、ほとんどのお話を忘れているのですが、一編の悲しいお話だけはいつまでも強く印象に残っています。

大貴族の庶腹の娘ジュリアが、メディチ家のお姫様とある公国の公子との結婚の前に、公子に男性としての能力、つまり性行為をする能力があるかどうかを試すための、実験台にされるお話。
たとえ召使の子であっても貴族としての矜持を持つジュリアは屈辱に思いますが、拒否すれば無一文で修道院に送られ、下女のような扱いを受けるのは目に見えているので、ジュリアは渋々実験台になることを承知します。
 彼女にとってさらに不運なことに、公子は偉ぶらない魅力的な人物で、ジュリアは一時のお相手に過ぎない公子に恋をしてしまいます。
妻にはなれなくとも、もしかしたら公子は自分を愛妾に迎えてくれるかもしれない、そこまでいかなくともまた会いに来てくれるかもしれない。
 ジュリアの期待は酷くも裏切られ、彼女にはもとの庶民としての暮らしが待っていました。
公子とメディチ家のお姫様の結婚式が華々しく行われるなかで、彼女は子を身ごもっていることに気が付きました。
やがて元気な男の子を産み落とします。
その子は父親である公子のもとに送られるも、認知されず、庶子としての扱いすら受けられませんでした。

以上が記憶していた大体のあらすじです。
他にも印象的な短編が多くあり、面白いと感じた記憶はあるのですが、20年以上たってあらすじを覚えているのはこの一編だけです。
ジュリアの無念さ、口惜しさ、惨めさ、哀しさ、その間に見た、つかの間の幸せ。

彼女の気持ちが胸に迫ってきて、数日彼女のことばかり考えていました(受験生だったんですけどね・・汗)。

誇りを持ちつつも、慎ましく分をわきまえて暮らしていた人が、目下のものの気持ちなど露ほども思いやらない傲慢な貴族に踏みにじられる。
何と言う理不尽か。

これは市立図書館で借りた、ハードカバーの本だったように思います。


先々月書店でこの「愛の年代記」の文庫を見つけました。
今読んだらまた違う感想を持つのではないか、自分の記憶とは多少違うのではないか、一番気になるのはこれらは実在した人物の話なのかどうか、出典があるのだろうか、、様々な疑問が湧き上がり、もしかしたら高校生のときのように読んだあと気が滅入るかもしれないなあと案じつつも、購入し再読しました。

収録されているのは短編9篇。


●「大公妃ビアンカ・カペッロの回想録」
古い貴族の娘に生まれたビアンカが恋人と駆け落ちしたり、トスカナ大公の皇太子に見初められて愛妾になったりしながら、正式な大公妃に昇りつめるまでの一代記。
面白すぎると思ったら、19世紀末に出た同名の偽古文書が土台なんだそうです。
古文書偽造はある時期、インテリ貴族の道楽だったんだそうで・・。
古文書偽造・・どこの国にもあるんだなあ。
お話は面白いけれど、私はこの主人公にあまり共感できなかったです。
貴族の娘なのに思慮が浅く、その場の感情で動いて周囲を巻き込んでいるように思います。

●「ジュリア・デリ・アルビツィの話」
私が覚えていたのはこの小説でした。
読み返してみて、その短さに驚かされました。
自分の印象の深さからか、中篇程度の長さと記憶していました。
あらすじに記憶違いはないものの、細部はさすがに忘れていました。

マントヴァ公国の公世子の最初の結婚が、相手の姫君の身体的欠陥によって破綻したこと。

二度目の結婚相手としてトスカナ大公の公女が決まったが、姫君の継母(前章のビアンカ)が、「相手の体に欠陥があるのではないか」と、結婚前にマントヴァ公子に「実験」を薦めたこと。

実験の相手にされた貴族アルビツィ家の私生児であるジュリアには、その見返りとして三千スクードの報奨金、そしてそれを持参金として夫を見つけてやる、という約束がトスカナ公国の大臣と老アルビツィ伯の間でなされたこと。

そして、読み返してみて驚いたのは、ジュリアの嫁いだ相手がメディチ家の宮廷音楽家、カッチーニだったということです。

ジュリオ・カッチーニ

西洋音楽史に名高い、大物作曲家ではないですか。

たとえカッチーニの名前を知らない人でも、クラシックに全く興味のない人でも、カッチーニの「アヴェ・マリア」は耳にしたことがあるはずです。
(実はカッチーニ作ではないというこぼれ話はさておき)

そして、娘のフランチェスカ・カッチーニ。
13歳でメディチ家の宮廷で声楽を披露した天才少女で、世界初の、女性オペラ作曲家。

フランチェスカは、哀れなジュリア・デリ・アルビツィの娘なのでしょうか?

私の中で哀しげに俯いていたジュリアのイメージが、突然光彩を放ち始めました。

本当のことが知りたくて、ジュリア・デリ・アルビツィの名をネットで検索しまくりましたが、ウィキぺディアをはじめ、出てくるのはこの「愛の年代記」そのままの記述ばかりでした。
参考文献を見てみると、塩野七生「愛の年代記」のみ。

塩野七生先生はあとがきに「創作のヒントを得た史料」として、各短編の元になった史料や作家について書かれています。
この短編については「ヴェネチア、マントヴァ、フィレンツエの年代記をもとにしました」とのこと。
登場人物や起こった出来事はたとえ史実でも、「愛の年代記」は創作小説です。

司馬遼太郎の小説の人物評価がそのまま信じられたりすることが今でもよくありますが、歴史小説と歴史の間は、できるだけ線引きしてくれると助かります。
私のような無知でズボラな人間は、お手軽に得たネット情報をそのまま信じてしまいかねません。

ネットはあまり役に立たなかったので、今西洋音楽史とイタリアの歴史本を図書館で何冊か借りて読んでいます。
ジュリア・デリ・アルビツィについて書かれている(らしい。すんなりとは読めない)洋書も取り寄せました。

近くの図書館で集められる程度の情報ですから、あまり収穫はないかもしれませんが・・。

小説の話に戻ります。

●エメラルド色の海
王妃の身代わりとして、海賊ウルグ・アリと対面したピアンカリエリ伯爵夫人。
このたった一度の出会いと思い出が、彼女のその後の人生を照らし続ける・・。

なんていいお話なんだろう。この本の中で一番好きです。
高校生のころ読んだときは読み飛ばしていたのか、あまり記憶に残っていなかったのが不思議です。

こういうプラトニックなお話は、若い娘より中年の心に、より訴えかけるものがあるのでしょうか・??

誇り高く賢い伯爵夫人が、ウルグ・アリから贈られた錦を広げて、声を放ってなく場面が特に好きです。

「悲しかったからではない。嬉しかったのだ」

「愛の年代記」は初期作品だけれど、どちらかというと難解でお堅いイメージのあった塩野さんが、こんな優しい話を書いていたなんて・・と驚きました。

●パシリーナ侯爵夫人の恋
年の離れた侯爵に嫁いだパシリーナが、義理の息子とただならぬ関係になって、愛人ともども夫に処刑されてしまう話。

●ドン・ジュリオの悲劇
ルクレツィア・ボルジアの女官アンジェラの、無思慮な言葉によって引き起こされるフェラーラ公国エステ家兄弟の騒動。

「良いことも出来なければ、かといって悪事に徹底することもできない人とは、何もできない人間ということになる。こういう種類の男たちに対して、ルネサンスという時代は厳しい時代だった。」

今の日本の政治家がもしこの時代にいたら、ドン・ジュリオと同じ目にあいそう。間違いなく。

●パンドルフォの冒険
信心深く貞淑という評判の40女が、年の離れた愛人(パンドルフォ)を持つ。
死期が近づくなか、愛人への思いを断ち切れない彼女は、ある計略を用いて愛人を道連れにしようとする。

こういう話、岩井志麻子がうまく書きそう。
勿論舞台は岡山の山村で、カッサパンカ(嫁入り道具の長箱)は腐りかけた長持ちで。

●フィリッポ伯の復習
年若い妻を愛し、我侭を許してきたフィリッポ伯だが、妻の不貞には烈火のごとく怒り、不倫相手よりも妻に対して残酷極まりない拷問を受けさせ、最後は彼女を生きたまま壁に塗りこめてしまうという、怖いお話。

わりと最近、これと同じ話を読んだような気がするんです。
コンビニでよく500円で売っている「世界の残酷話」とか「血塗られた世界史」とか刺激的なタイトルの付いた雑誌本でです。

「愛の年代記」のあとがきでは「イタリアの短編作家パンデッロの作品からヒントを得ました。」とありました。
創作を基にした創作のはず。

もしかして塩野作品を史実と信じた人が書いたのでしょうか・・?
それとも大元のパンデッロの作品の、創作のヒントとなった歴史事実があったのでしょうか。

あのコンビニ本を家中探してみたけれど、どうも捨ててしまったらしくて、確認することができません。

●ヴェネチアの女
司教の秘書を勤める真面目な男が、女によって転落していく話。
女性に夢を持ちすぎてはいけません。

●女法王ジョバンナ
伝説の女法王のお話。
貧しい生まれから生来の賢さをもってのし上がっていく男装の修道士、ジョバンナ。
小説として面白いです。
読みはじめたらとまらない。
ただ、ジョバンナが本当に実在したとは思えないです。

ミサの最中に出産して死んでしまうという最期が、あまりに女性性を強調していて作り物めいて見えるのです。

でも作者の言うとおり、これが本当なら、同性として痛快に思います。


最後に。塩野七生さんというお名前。七夕生まれだからなのだそうです。
私と同じ誕生日だったんですね!








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「二十四の瞳」 壺井栄

この小説のあらすじをご存じない方はおそらくいらっしゃらないでしょう。

壺井栄の代表作で、昭和29年には高峰秀子主演で映画化もされていますし、その後何度もテレビなどで映像化されています。

小豆島に赴任してきたハイカラな若い女先生と、12人の子どもたちの心の交流と、その後起こった戦争による悲劇。
元生徒たちの死、悲運、大石先生の家族を襲う苦難。
艱難辛苦を乗り越えて、生き残った元生徒たちと大石先生との再会。

高峰秀子主演の映画は大ヒットし、海外でも高評価を得たようです。

今「二十四の瞳」で検索すると、小説よりも映画のレビューや解説が多くヒットします。

しかし、この小説、私は子どものころ・・おそらく小学生のころ読んだのですが、感動するどころか、なんだかものすごく後味が悪いと感じた記憶があるのです。
大石先生はいいけれど、生き残った生徒たちが好きになれなかったのです。
無論話の細部はすっかり忘れているのですが・・。

先日図書館の児童書のコーナーで本書を見つけたので、ほぼ三十年ぶりに再読してみました。


瀬戸内海べりの一寒村(作中では小豆島という名は出てきません)に赴任してきた若い大石先生。
若くハイカラな女先生に村の人々ははじめ嫌悪感を示すも、生徒の作った落とし穴に落ちて先生が足を怪我をする、という事件がおきたのをきっかけに、徐々に子どもたちとの距離を縮めます。

その後数年おきに話は飛び、母親の死によって学校を辞めさせられ、子どものうちから働かされる子がいたり、家が没落して身売りされる子がいたり、奉公先で肺病を病む子がいたり、5人のうち3人の男子が戦死したり・・といった悲しい出来事が淡々と平易な文章で綴られていきます。

反戦文学に違いないのでしょうが、あまり押し付けがましさを感じないのは、この淡いタッチの文章のおかげかもしれません。

大石先生の慈母のような優しさに、時おり涙がにじみました。


でも・・、12人の子どもたちの描写は、今ひとつだと思うのです。
彼らの個性があまり感じられないのです。
人生の裏街道をいくはめになる松江や富士子、奉公に出されるコトエ、盲目となって復員したソンキは印象に残るけれども、そのほかの子どもたちは誰がどのエピソードの持ち主だったか分からなくなり、しょっちゅう前を確認しました。

そして、みんな大石先生に対しては純真さを見せるのに、仲間であるほかの子どもに対して冷淡過ぎるのです。

母親の死で学校に来ることができなくなり、泣く泣く親戚の家へ連れて行かれることになった松江に対しても、家が没落して夜逃げするはめになった富士子に対しても。

その後親に売られて、どうやら遊女か芸者かの泥水稼業に堕ちているらしい富士子にいたっては、かっては机を並べた仲であるというのに、元同級生たちは富士子をさげすみ、面白おかしく話のネタにする始末。

普通は友達の悲運に胸を痛めるでしょう。
同性なら、なおさら。
荒んだ世相が彼らを変えたと解釈するべきなのでしょうか?
それにしたってあまりにも、あまりにも酷薄に過ぎるではないですか。

彼女たちの境遇に心を痛めるのは、大石先生ただ一人なのです。
まるで放射状の線のように、先生だけが子どもたち一人一人の身を案じ、悲しみをともにし、慈母のように見守るのです。
子どもたち同士の横のつながり、同期の友情はあまりないように見えるのです。


読み返してみて、思い出しました。

物語の終盤で、大家の婦人となっているミサ子。
初めてこの本を読んだとき、私は勝利者然としたこの女が嫌いでたまらなかったのです。

ミサ子は人生の裏街道を歩んでいるかっての女友達を、先生の前で平然と貶します。

戦争で盲目となり、実兄に疎まれながら身を小さくして生きている磯吉にむかって
「死ねばよかったのに」と平然と言い放ちます。

お金持ちの家の子だったミサ子は、頭の出来は良くなかったけれど、奸智に長けていたのか戦争を機にさらに財をなしているようです。
嫌な女です。

旧家の娘で働くすべをまるで持たなかった富士子と、もともとお金持ちのミサ子。
長じてからは、一見対象的な運命をたどるように思える二人です。

が、壺井栄に左翼的傾向やプロレタリア文学の影響があったとすれば、どちらもブルジョアの末路を書いたものと推測することもできるのではないでしょうか。

富士子は実際に零落し、ミサ子は子ども時代の面影のない、醜悪な大人になったのですから。

12人の子どもたちの中で、とりわけ悲惨な運命をたどる富士子、コトエ、松江の三人を除いては、どの子もあまり好きになれません。

大変な時代を生きてきたんだなとは思うけれども、あまり感情移入できないのです。

情けの薄い人間は、私は嫌いです。

でも、慈母のような大石先生に沿って物語を読むと、また風景が違って見えます。
転落していく子どもたちを救うことのできないくやしさ。
変貌していく子どもを叱責できないもどかしさ。
大石先生は、あまりに無力です。
教師の出来ることには限界があるのです。


「二十四の瞳」は、壺井栄のほかの作品と同じく、母性愛を描いた文学だと思いました。

この作品を楽しむなら、大石先生の視点、母の視点から物語を見るべきだったのです。

児童書として名高く、図書館で借りた本にも「教科書で出てくる本」とかいう銀のステッカーが貼ってあったけれども、どちらかというと大人向けじゃないのかなあ。

少なくとも私は、大人になってからのほうが、多角的にこの物語を見ることができました。

「女坂」円地文子その3

主人公倫(とも)は、自分の感情を抑え、夫の無理難題に文句を言わず従い、厳しく自らを律し、夫に変わって膨大の白川家の土地を管理し、女支配人(女主人ではなく)として君臨します。
30やそこらで、白川との夫婦生活は無くなっていて、しかも周囲もそれを知っています。
書生ごときに「あの人は他人じゃないか」とすら言われています。

内心の侘しさ、苦しさを決して表に出さず、心に鎧を固めて、家族が次から次に起こすトラブルの後始末に奔走します。
またこれが皆ロクデナシばかりで。特に異母兄妹同士であわや・・という展開には、安いメロドラマみたいでちょっと鼻白んでしまいました。

でも、晩年の倫が、家に向かう途中の坂を、雪に打たれながら登るシーンは、多くの人が心を打つ名場面として上げられています。

坂の途中、小さな家々・・しもた屋だったり八百屋だったり・・が倫の目に入ります。

   (引用)
同じような杏色の電灯の光は無限に明るく、惣菜の匂いはなんとも言えぬ濃やかな暖かさを嗅覚にうったえて来て、倫の心を揺さぶった。
幸福が・・・調和のある小さい、可愛らしい幸福が必ずこの家々の狭い部屋の燭光の弱い電灯のもとにあるように倫には思われた。
小さな幸福、つつましい調和・・結局人間が力限り根限り、呼び、狂い、泣きわめいて求めるものはこれ以上の何ものであろうか。

(引用終わり)

晩年の倫の絶望と侘しさが、胸に迫ります。

寒い夜の、他所の家の暖かげな灯火は、今でもなんだか幸せそうで、羨ましくみえるものです。

小さな家の優しげな灯火に、自分の得ようとして得られなかった幸せを、倫は投影したのです。

(実際には、小さな家には小さな家の、貧乏には貧乏の修羅があると思うのですが)


このすぐ後に倫は病み伏し、凄絶な言葉「死骸は海へざんぶりと捨ててください」を、ほとんど快げに吐くのです。


この「ざんぶり」という言葉は「女坂」でもっとも印象に残るものですが、倫は自分の一生を惨めなものだったと悔い、自嘲的に言ったのか、長年溜めに溜めた呪詛、怒りを始めて夫に対してぶつけたのか、あるいは自分の守り続けてきた家を厭い、「白川の墓になんか入りたくない」という意味で言ったのか、私の中でも解釈が分かれます。


しかし、私は倫を、背表紙の説明書きにあるような、「全てを犠牲にして家という倫理に殉じ、真実の愛を知ることの無かった女の一生の悲劇と怨念」といった、「悲劇の女」だとは思わないのです。

時を経るごとにサディスティックな暴君となっていく夫の白川行友。
私は白川をこのような男にしてしまったのは、倫なのではないかと思わないでもないのです。

白川が書記官であったころ、自由党の秘密集会を襲撃して怪我を負ったとき、白川はまず倫の元へ行き、あらぶる感情を処理するかのように倫を抱きます。
これが本書で唯一書かれる、夫婦生活です。
倫は須賀を傷つけることは出来ないので、手軽な自分で欲望をすましたのだと、屈辱に感じます。

自由民権運動を弾圧してきた白川は、やがて時代が変わり、今度は自分が復讐されるのではないか、と恐怖します。
そのとき白川は倫に対してこういう思いを抱きます。

(引用)
白川は弱くなった心を倫に抱きかかえて貰いたいと思う。それは金魚や小鳥のように賞玩している須賀や由美にわけられようのない感情で、自分よりも強い逞しい意志によって生きている倫だけが撫でさすり、血を吸ってくれる傷なのである。
しかしそれは白川の描き出す母の幻影が倫にまつわっているだけで現実の倫にはもう夫の中にそんな微妙な精神の傷を探し出すほどの敏感な愛情はとうに灰となりさめ果てていた。

(引用終わり)

この時倫の夫に対する愛情が冷め切っているのは無理も無いことなのですが。

しかし、白川にとってまだ倫は、ほかとは別格の強い存在であり、唯一弱音を吐けるあいてではなかったのでしょうか。
倫に包み入れてもらうことがかなわず、彼女の堅牢な鎧に拒絶された白川は、ますますサディスティックな傾向を募らせていきます。

いかに白川が九州男児で、女に対して支配的傾向のある男だとしても、一対の男女として、ともに家の中心として、倫は早いうちに、もっと本音をさらけ出してもよかったのではないでしょうか。

美夜のように、自分の欲するところに貪欲に、殴られても、罵られても、どんなにみっともなくたって、自分の幸せのための戦いをするべきだったのではないでしょうか。

そうしたら、もしかして白川はこのような酷い男になってはいなかったのかもしれないと、私は思うのです。

「家」の核は夫婦です。家の核となるべき一対の夫婦の関係が破綻し、片方が鎧にこもってしまった「家」など、ただの形骸に過ぎぬのです。幸福になりようがないのです。

「できた人」にならなくてもいい。人に良い妻だと思われなくともいい。
もっと早くに倫は、夫に本音をぶつけるべきでした。

彼女が初めて本音をさらけだした「ざんぶり捨てて」の遺言は、あまりにも遅すぎました。

やはり、最期の言葉は、自分のこれまでの生き方に対する後悔なのでしょうか。




しかし、「女坂」に登場する男達は、なぜこんなに悪い男ばかりなのだろうかと不思議に思います。
いかに明治が女性にとって生きにくい時代だったとはいえ、男達はこんなに悪人と阿呆だらけではないでしょう。
白川行友は官憲として悪行の限りを尽くして財を成し、時代の潮目が変わるとさっさと引退して豪邸に篭り、家の女達をサディスティックにいたぶるかのように、暴君として振舞います。
白川と倫の息子、道雅は我侭で横暴で、まったく働きもせず親の財産を蕩尽するだけの、どうしようもない人物です。

「女坂」の男達の魅力のなさは、一体どうしたことでしょう。作者の男性観なのでしょうか。

林真理子さんは、「倫はどうあっても白川行友を愛していたから、無理難題に耐えてきたのだ」と解釈されているのですが、倫は白川のどういうところに愛情を感じていたのでしょうか?首を傾げてしまいます。

もしこの作品に、若いころの白川と倫の愛情のあったころの幸福な生活の描写が少しでもあり、それが倫のその後の人生を照らしていたのだ、とでもいうのならまだ分かるのですが。

私は倫が長く絶え続けたのは、これまでの自分の犠牲と献身の人生を省み、このまま何の見返りもなく、自分の人生を不幸なままで終わらせてなるものか、という意地だったのではないかと感じました。
行友本人への愛ではなく、忍従一筋だった人生を無駄にしてなるものか、という、これまでの自分の人生への執着だったのではないかと。

倫はとても厳しく近寄りがたく、周囲に恐れられているけれども、実は面倒見がよく、情けの深い人です。
それを表に出すことが出来なかったところに、彼女の最大の不幸があるように思います。
女性の持つまろやかさ、おだやかさに欠けているのです。
内側に優しさを秘めているのに、実に損な性分です。


高校生の時に読んだこの本が、あまりにも長く心に重く沈殿しているので、トラウマ(?)と向き合い、蘇る憂鬱のピリオドを打つべく、再トライして考察してみました。

高校生には早すぎたなあと思うけれど、十代の気力があったからこそ読破できたのだろうと思います。
中年となった今の私は、日々のめまぐるしい生活の中での、ささやかな娯楽、癒しとして本を読みます。
こういう辛い話の本を手に取る気力は、今の私にはもうありません。

品格ある文章、物語に引き込む筆力は素晴らしいものですが、私のように娯楽的な小説を好む人は好きになれない小説かもしれません。
しかし明治の風俗や昭和の文学について学ばれたいという方、本好きの方には、ぜひご一読をお勧めします。

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