三毛犬ジョニーへの伝言

旧「自堕落な蟻」 ブログ名変えました。ジョニーは昔飼っていた可愛いビーグルの名前です。

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ナガミヒナゲシ

去年の今頃、娘二人の手を引いて幼稚園への坂道を登っている途中で、鬱陶しいほど咲いているナガミヒナゲシを見ました。

ナガミヒナゲシは、オレンジ色のポピーのようで、見た目は可愛いのですけれど、物凄い繁殖力の雑草です。

すぐに駆除されてしまうようですが、それでもまた生えてきます。

殴られても殴られても立ち上がるボクサーを見るようで、私はなんとなくこの花が好きなのでした。


今年もまた、道端に咲いているナガミヒナゲシを難なく見つけることが出来ました。

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しかし、まさにわが世の春を謳歌するかのように咲き誇っていた去年の様子と比べ、今年はなんだか打ち萎れて見えるのです。

今年の春の、あまりに寒暖の差の激しさに、さすがのナガミヒナゲシも参ってしまったのでしょうか。


雑草は雑草なのですが、なんだか寂しい。


逞しく、厚かましく、強い花のはずなのに、どうしちゃったのよ。アナタまで。

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習い事

エネルギーを持て余しているらしいパワフルな長女に、何か武道をやらせてみることにしました。

うちの近所には空手やキックボクシングの総合武道?の教室と、合気道教室、そして地元警察が開いている剣道教室があります。

剣道教室はすでに見学済み。
でも剣道はかなり希望者が多く、狭き門のようです。

今週は長女を連れてあちこち見学に行ってきます。

ドルフと同じ極真空手をやらせてみたかったけれど、近所にないんですよね…。
武道に不可欠の礼節を学んでくれるなら、基本何でもいいんですけど。

野獣のごとき君なりき

大人しく、小心で、泣き虫の長男と二女と違って、長女はやたらと勝ち気で負けず嫌い、そして癇癪持ちでした。

正直、育てにくい子です。

見た目も性格も行動も、まるで男のようです。

幼稚園の頃、男の子と取っ組み合いの喧嘩をしていました。
一応、仮にも女なので、私が止めに入ろうとすると、
「邪魔するなあ!」と吠えられました。
ママンに庇われるのが彼女には我慢ならなかったようです。

小学校に入っても、長女の異常な負けず嫌いと癇癪持ちは変わりません。


長女が決して可愛くないわけではないのですが、同じように育てていて、何故長女だけがこんな子になってしまったのかと、時々頭を抱えています。


幼稚園では幸運なことに、長女の長所短所まるごとひっくるめて、全肯定して可愛がってくれるような先生に出会えました。

その幼稚園の先生に愛された記憶は、この先の長女の人生をずっと照らしてくれるでしょう。

私が中学生の時の、自分を気恥ずかしいほど誉めて全肯定してくれた担任の先生を忘れないように。

しかし、小学校生活で求められるものは、個性よりもまず周囲との調和です。

長女は、うまく新しい環境に馴染めるのかどうか。

心配でしょうがありません。

子を持つことは業を背負うこと、という最近読んだ小説の一説を思い出す今日この頃なのでした。

ロンパリ

二女が幼稚園の健康診断で、斜視を指摘されました。

この一年ほど、ぼんやりしているとき目の焦点が合っていないことが多く、「この子もしかしてロンパリ?」と気になってはいたんですが・・、本人が目医者を怖がるのでなかなか診察してもらいに行けずにいました。

二女を説得して、眼科へつれて行こうとしましたが「いや、怖い!」の一点張り

仕方ない、また来週にでもトライしてみよう、と諦めかけていたら、主人が

「マリちゃん、おとうたんとめいしゃさんいく?」

「いく」(あっさり)

・・・・


なんやねん。

ここ数十分の私との押し問答はなんだったんだ。


診察の結果。

詳しい検査をしてみないとまだ確定ではないけれど、

このままでは遠近感がなくなり、片方の目の視力も落ちてくる。

今すぐではないけれど、やはり手術したほうがいいとのこと。


私もときたま(主に心が二次元にとんでいるとき)目の焦点が合わなくなるんです。

仮性斜視、というのでしょうか。

だからそんなに二女のことも気にしてなかった。

手術かあ。

気が重いです。


備忘録

先日島村洋子の「秘密の花園」という本を読んでいたら、「ん、なんかこの先のオチを知ってるぞ、私」と、なんだか既視感が・・・。やっぱり以前読んだことのある本でした

松たか子の顔の載った帯に惹かれて、「ヴィヨンの妻」の文庫を買って読んでみたら、「これって最後のほうに奥さんが送りオオカミに乱暴される話だったっけ」とやっぱり既視感が・・。

結構私本読んでるなあ。というより、読んだことを忘れるなよ

同じ本を二度買いしないように、備忘録として今年に入って読んだ本を記しておきます。
特に面白かったものはのマークを。

貴志祐介「黒い家」
    「青の炎」
    「硝子のハンマー」
    「天使の囀り」

藤本ひとみ「アンジェリク」

中山可穂「白い薔薇の淵まで」
    「マラケシュ心中」
    「弱法師」
    「猫背の王子」
    「天子の骨」

奥田英朗「無理」
    「オリンピックの身代金」

花村萬月「セラフィムの夜」

貫井徳郎「殺人症候群」
      「誘拐症候群」

篠田節子「弥勒」
    「愛逢い月」
    「コミュニティ」 

円地文子「女坂」

島村洋子「月下氷人」
    「ポルノ」
    「王子様いただき!」

西原理恵子「パーマネントのばら」
      「この世で一番大事なカネの話」 


買っているけど未読本

角田光代 「八日目の蝉」
東野圭吾 「新参者」
     「ブルータスの心臓」
湊かなえ 「告白」
吉田修一 「悪人」
桐野夏生 「メタボラ」


      

「女坂」円地文子その3

主人公倫(とも)は、自分の感情を抑え、夫の無理難題に文句を言わず従い、厳しく自らを律し、夫に変わって膨大の白川家の土地を管理し、女支配人(女主人ではなく)として君臨します。
30やそこらで、白川との夫婦生活は無くなっていて、しかも周囲もそれを知っています。
書生ごときに「あの人は他人じゃないか」とすら言われています。

内心の侘しさ、苦しさを決して表に出さず、心に鎧を固めて、家族が次から次に起こすトラブルの後始末に奔走します。
またこれが皆ロクデナシばかりで。特に異母兄妹同士であわや・・という展開には、安いメロドラマみたいでちょっと鼻白んでしまいました。

でも、晩年の倫が、家に向かう途中の坂を、雪に打たれながら登るシーンは、多くの人が心を打つ名場面として上げられています。

坂の途中、小さな家々・・しもた屋だったり八百屋だったり・・が倫の目に入ります。

   (引用)
同じような杏色の電灯の光は無限に明るく、惣菜の匂いはなんとも言えぬ濃やかな暖かさを嗅覚にうったえて来て、倫の心を揺さぶった。
幸福が・・・調和のある小さい、可愛らしい幸福が必ずこの家々の狭い部屋の燭光の弱い電灯のもとにあるように倫には思われた。
小さな幸福、つつましい調和・・結局人間が力限り根限り、呼び、狂い、泣きわめいて求めるものはこれ以上の何ものであろうか。

(引用終わり)

晩年の倫の絶望と侘しさが、胸に迫ります。

寒い夜の、他所の家の暖かげな灯火は、今でもなんだか幸せそうで、羨ましくみえるものです。

小さな家の優しげな灯火に、自分の得ようとして得られなかった幸せを、倫は投影したのです。

(実際には、小さな家には小さな家の、貧乏には貧乏の修羅があると思うのですが)


このすぐ後に倫は病み伏し、凄絶な言葉「死骸は海へざんぶりと捨ててください」を、ほとんど快げに吐くのです。


この「ざんぶり」という言葉は「女坂」でもっとも印象に残るものですが、倫は自分の一生を惨めなものだったと悔い、自嘲的に言ったのか、長年溜めに溜めた呪詛、怒りを始めて夫に対してぶつけたのか、あるいは自分の守り続けてきた家を厭い、「白川の墓になんか入りたくない」という意味で言ったのか、私の中でも解釈が分かれます。


しかし、私は倫を、背表紙の説明書きにあるような、「全てを犠牲にして家という倫理に殉じ、真実の愛を知ることの無かった女の一生の悲劇と怨念」といった、「悲劇の女」だとは思わないのです。

時を経るごとにサディスティックな暴君となっていく夫の白川行友。
私は白川をこのような男にしてしまったのは、倫なのではないかと思わないでもないのです。

白川が書記官であったころ、自由党の秘密集会を襲撃して怪我を負ったとき、白川はまず倫の元へ行き、あらぶる感情を処理するかのように倫を抱きます。
これが本書で唯一書かれる、夫婦生活です。
倫は須賀を傷つけることは出来ないので、手軽な自分で欲望をすましたのだと、屈辱に感じます。

自由民権運動を弾圧してきた白川は、やがて時代が変わり、今度は自分が復讐されるのではないか、と恐怖します。
そのとき白川は倫に対してこういう思いを抱きます。

(引用)
白川は弱くなった心を倫に抱きかかえて貰いたいと思う。それは金魚や小鳥のように賞玩している須賀や由美にわけられようのない感情で、自分よりも強い逞しい意志によって生きている倫だけが撫でさすり、血を吸ってくれる傷なのである。
しかしそれは白川の描き出す母の幻影が倫にまつわっているだけで現実の倫にはもう夫の中にそんな微妙な精神の傷を探し出すほどの敏感な愛情はとうに灰となりさめ果てていた。

(引用終わり)

この時倫の夫に対する愛情が冷め切っているのは無理も無いことなのですが。

しかし、白川にとってまだ倫は、ほかとは別格の強い存在であり、唯一弱音を吐けるあいてではなかったのでしょうか。
倫に包み入れてもらうことがかなわず、彼女の堅牢な鎧に拒絶された白川は、ますますサディスティックな傾向を募らせていきます。

いかに白川が九州男児で、女に対して支配的傾向のある男だとしても、一対の男女として、ともに家の中心として、倫は早いうちに、もっと本音をさらけ出してもよかったのではないでしょうか。

美夜のように、自分の欲するところに貪欲に、殴られても、罵られても、どんなにみっともなくたって、自分の幸せのための戦いをするべきだったのではないでしょうか。

そうしたら、もしかして白川はこのような酷い男になってはいなかったのかもしれないと、私は思うのです。

「家」の核は夫婦です。家の核となるべき一対の夫婦の関係が破綻し、片方が鎧にこもってしまった「家」など、ただの形骸に過ぎぬのです。幸福になりようがないのです。

「できた人」にならなくてもいい。人に良い妻だと思われなくともいい。
もっと早くに倫は、夫に本音をぶつけるべきでした。

彼女が初めて本音をさらけだした「ざんぶり捨てて」の遺言は、あまりにも遅すぎました。

やはり、最期の言葉は、自分のこれまでの生き方に対する後悔なのでしょうか。




しかし、「女坂」に登場する男達は、なぜこんなに悪い男ばかりなのだろうかと不思議に思います。
いかに明治が女性にとって生きにくい時代だったとはいえ、男達はこんなに悪人と阿呆だらけではないでしょう。
白川行友は官憲として悪行の限りを尽くして財を成し、時代の潮目が変わるとさっさと引退して豪邸に篭り、家の女達をサディスティックにいたぶるかのように、暴君として振舞います。
白川と倫の息子、道雅は我侭で横暴で、まったく働きもせず親の財産を蕩尽するだけの、どうしようもない人物です。

「女坂」の男達の魅力のなさは、一体どうしたことでしょう。作者の男性観なのでしょうか。

林真理子さんは、「倫はどうあっても白川行友を愛していたから、無理難題に耐えてきたのだ」と解釈されているのですが、倫は白川のどういうところに愛情を感じていたのでしょうか?首を傾げてしまいます。

もしこの作品に、若いころの白川と倫の愛情のあったころの幸福な生活の描写が少しでもあり、それが倫のその後の人生を照らしていたのだ、とでもいうのならまだ分かるのですが。

私は倫が長く絶え続けたのは、これまでの自分の犠牲と献身の人生を省み、このまま何の見返りもなく、自分の人生を不幸なままで終わらせてなるものか、という意地だったのではないかと感じました。
行友本人への愛ではなく、忍従一筋だった人生を無駄にしてなるものか、という、これまでの自分の人生への執着だったのではないかと。

倫はとても厳しく近寄りがたく、周囲に恐れられているけれども、実は面倒見がよく、情けの深い人です。
それを表に出すことが出来なかったところに、彼女の最大の不幸があるように思います。
女性の持つまろやかさ、おだやかさに欠けているのです。
内側に優しさを秘めているのに、実に損な性分です。


高校生の時に読んだこの本が、あまりにも長く心に重く沈殿しているので、トラウマ(?)と向き合い、蘇る憂鬱のピリオドを打つべく、再トライして考察してみました。

高校生には早すぎたなあと思うけれど、十代の気力があったからこそ読破できたのだろうと思います。
中年となった今の私は、日々のめまぐるしい生活の中での、ささやかな娯楽、癒しとして本を読みます。
こういう辛い話の本を手に取る気力は、今の私にはもうありません。

品格ある文章、物語に引き込む筆力は素晴らしいものですが、私のように娯楽的な小説を好む人は好きになれない小説かもしれません。
しかし明治の風俗や昭和の文学について学ばれたいという方、本好きの方には、ぜひご一読をお勧めします。

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「女坂」円地文子 その2

「女坂」は実に嫌な話です。娯楽とは程遠く、まるで救いが無い。
倫も、須賀も、由美も、美夜も、地獄のような人生をあがきつつ生きています。
まるで出口の無い迷路を彷徨うかのような逼塞感。耐え難いです。

いかに当時は妾を持つことや妻妾同居が珍しくなかったとはいえ、正妻である倫の苦悩は勿論ですが、妾たちも可哀想過ぎる。
あどけない素人の娘が本人のあずかりしらないところで、親に売られ、一生を家に縛り付けられてしまうとは、あまりに酷過ぎて、読んでいて辛いです。

私がもし、この作品の須賀や倫、由美のような立場にあったら(美夜は自分とかけ離れすぎているので想像できません)、おそらく自ら命を絶っていると思います。
大人になった今でも、心に余裕のあるときでないと読めない本です。

でも、高校生の頃は分からなかったけれど、明治時代は妻妾同居なんてお金と権力のある男なら誰でもやっていたことです。
そして当時もっと苦しい立場に置かれた女性が沢山いたはずです。女性に出来る仕事も少なく、庇護者である男、父か兄か夫か、を失えば、たちまち転落しかねない。社会が手を差し伸べてくれるわけでもない。
野垂れ死にすることもありうるのです。

殊に権力のある男にとって、女は虫けら同然。
倫にしても新たな妻を迎えて追い出さないだけ有難く思え、須賀に対しては屋根のあるところに住まわせ、飢えさせなかっただけ有難く思え、というところなのでしょう。

誰も虫けらの気持ちなんて思いやったりしないのです。
酷い、と思うのは、所詮私が平和な戦後生まれの人間だからなのでしょう。

でも、手当たり次第にあらゆるジャンルの本を読んでいた10代の頃は、主人公が不幸になっていく救いようの無い嫌な話なんて他にもたくさん読んでいたはず。
なのに、高校生の私は何故この本だけ、しかも主人公ではない須賀さんの痛みをリアルに感じ、長く引きずってしまったのか。。

当時の自分はなぜこれほどまでに心にダメージを受けたのか、その感情をうまく言葉に出来なかったけれど、今再読してみて、ようやくその訳がわかる気がしました。

この本を読んだのは、高校へ入学したばかりの春だったのを覚えています。
須賀さんが自分の知らないところで、倫や母親に運命を決められてしまった時期と同じ、15歳。

15歳というのは、それほど子供でしょうか?
現代の15歳は義務教育が終わり、自分の身の丈にあった高校を選んで、新しい環境新しい世界への扉を開く時期です。
中年の今の私から見れば15なんて洟垂れだけれど、当時の私は自分が子供だという意識は無かったように思います。

まして明治時代。たとえ体は子供で初潮がまだなくても、今の15よりも精神的にずっと大人だったはずです。

須賀の母は、娘に白川家に娘を送り出す前に、娘に事情を話し、彼女を人身御供に出さざる負えない事を詫びるべきではなかったのでしょうか。
何も知らぬままに強姦まがいのことをされるよりも、須賀さんの心のダメージも、その後の須賀さんの心の持ちようも違ったのではないかと思うのです。

自分の人生の何もかもを、他の人間に握られて、白川に囚人さながらのように家に閉じ込められ、外の世界を知らずに年老いていく須賀さんは、あまりにも痛ましいです。

中年になった須賀さんは倫に頭を押さえつけられ、白川の寵を美夜に奪われ、心を許せる友でもあった由美に去られて、「いっそ芸者に売ってくれればよかった。旦那がいても、苦労しても、お天道様の元で自分はもっと張りのある人間になっていたのではないか」と嘆き苦しみます。

しかし妾仲間の由美さんは、客観的に見て須賀さんよりも不幸な人です。
家族の愛情にも恵まれず、白川にも須賀さんほどには愛されておらず、30やそこらの年になると息子の嫁美夜に骨抜きにされている白川に棄てられるように、倫の甥に下げ渡されます。

でも由美さんは、作中で「心の襞の浅い人」とあるとおり、ずけずけと物を言い、どうにもならぬことにくよくよと悩まぬ性質のようです。
悪く言えば底の浅い人なのですが、こういう人の方が幸せになりやすいのです。

由美さんは夫に先立たれますが、二人の子に恵まれ、倫の援助を受けつつも、お花の先生をして生計を立てている様子が物語の終盤に出てきます。

倫、須賀、由美、美夜という、この小説の主な4人の女達の中で、結果的に一番幸せになったのはこの由美でしょう。


比べて須賀さんは、もともと懊悩しやすい、繊細な性質の人に思えます。
そういう性質の人を倫が選び、白川が好んだのですが、彼女はたとえ芸者になっていても、あまり幸福にはなれぬ人のような気がします。

須賀さんは大人しく穏やかな人柄で、倫の娘悦子ですら、子供の頃母より彼女に懐いていたほど優しい女性ですが、その反面、嫌いな人間、道雅や美夜には結構辛辣だったりします。
白川は彼女を猫や金魚のような愛玩物と捉えていますが、彼女は決して大人しいだけの人形ではないのです。

今この小説を読むと、須賀さんに歯がゆさを感じるのです。
彼女が30半ばの中年になり、白川が美夜との密会を続けている頃、彼女が白川を難詰してみたい、拗ねた態度を取ってみたいと思うけれど、白川が怖くて出来ない、という箇所があります。

この時もう少し彼女に、一歩を踏み出す勇気があれば。
白川は愛玩動物に手を噛まれたと怒り狂うかもしれない。
あるいは、「海に棄てて」という倫の遺言にショックを受けた白川のこと。
須賀が傷つき、苦しみ、恨んでいた事に、今さらながら気づくかもしれない。
白川はまるで人に対する思いやりのない、自分のことしか考えない人間なのだから。

もし、白川が怒り、須賀を家から追い出すと言うのなら好都合。
堂々と実家である兄の家に身を寄せればいい。
兄の店は須賀さんの犠牲なければ、破産していたのかもしれないのだから。

このころ30半ばをすでに過ぎている須賀さんは、当時の感覚ではすでに人生の折り返し地点をかなり過ぎています。
残りの自分の人生を出来る限り幸せなものにするために、勇気を出してもう一歩踏み出していれば、と思うのです。

明治の女性が現代の女性より、はるかに辛く厳しく、選択肢の少ない生き方をしてきたかは重々承知です。
それでも少ないカードの中から、自分が納得できる、より幸せな人生を掴み取る手を打つべきだと思うのです。
それがうまくいくかどうかは分からないけれど、何も行動しないよりはましです。
我が身の不運を嘆き、鬱々とするだけでは、浮上しようがないのです。

須賀さんは15で家に閉じ込められ、それ以降外の世界をまるで知らないのですから、見識を広めようもなく、視野が狭くなってしまうのはしょうがないのですが。

書生とのことにしても(書生が須賀さんを愛していなかったように、須賀さんも白川の気を引くためにちょっと彼をつついてみただけで、倫の心配するようなことにはなっていないと私は思うのですが)、もう一歩勇気を出して踏み出していれば・・と、どうにも歯がゆく思います。
可哀想な自分に酔いしれているだけで、書生の不実を見抜き、行友に須賀をずっとこの家に置かせようとした倫の懐の深さも分からない。
正妻の倫からすれば、妾の須賀など将来どうなろうと、本心ではこの家から去って欲しかったのに違いないのに。

須賀さんは「陰気な猫」のように感情をあまり表に出さない人だけれども、由美が去り美夜に苦しめられていた時期に、抑えていた感情を爆発させる場面があります。
須賀さんのように懊悩しやすくエネルギーのない人にとって、このときが彼女の人生の転機だったのに。
「もう駄目だ」と絶望したときこそが、逆に自分の人生を切り替えるチャンスだったのに。

そして中盤から登場する息子の嫁美夜。
彼女が須賀や由美のように、白川にいきなり強姦されたというなら、そして須賀のような大人しく従順な女だったなら、「女坂」は一層陰惨な話になっていたのでしょうが、この美夜はファム・ファタールです。

淫蕩な娼婦性のある女で、専制君主白川を骨抜きにし、倫や須賀を苦しめます。

悪い女ではありますが、抑圧された女達の中で、彼女だけが異彩を放っています。

彼女はロクデナシの夫より、その父の方がはるかに好きなのです。
インモラルな関係であっても、「女坂」の人物の中で、彼女と白川だけが相思相愛の中なのです。

白川を操って、由美をお払い箱にし、須賀に嫉妬し、彼女をも白川から遠ざけようと白川を唆します。
たとえインモラルな関係であっても、自分の感情に正直に行動するそのさまは、けっして近寄りたくはないですが、嫌いにはなれないです。

次は、主人公倫について書きます。

「女坂」円地文子その1

10代の頃は、手当たり次第に本を読みました。
学校図書館にあるものはもちろん、読書家だった姉の本棚からもよく文庫本を借りて読みました。

中学、高校のころに読んだ本というのは、案外大人になってからも記憶に残っているものです。

そして中には、読み手の意識の幼さからか、「なんという嫌なお話だろう」と必要以上のダメージを心に受け、それがいつまでも心の中に沈殿している・・といった類の「鬱本」があります。

この「女坂」もそんな一冊です。

明治初期、地方官吏白川行友の妻倫(とも)は、夫の命令で妾を探し、妻妾同居の生活をさせられます。
行友は小間使いや息子の嫁にまで手を出しますが、倫は一言も文句を言わず、心を鎧で固め、じっと耐えます。
彼女はさらに息子や孫の不功績に駆けずり回り、最後まで自分を犠牲にして、「家」を守るために生きるのです。
病に伏した倫は最期の瞬間、はじめて感情を剥き出しにして、終生彼女を苦しめ続けた夫にこう言い放ちます。
「私が死んでも、決してお葬式なぞ出してくださいますな。死骸を品川沖にでも持っていて、海へざんぶりと捨ててくだされば結構でございます」

高校生の私が可哀想過ぎる、何と哀れな、と感じたのは、主人公の倫よりも、倫が夫の妾にするために探してきた須賀という少女でした。

読者の自分が倫と会ったころの須賀とほぼ同じ、15歳(当時は数え年ではありますが)。
作中の同年代の少女の悲運に、心がひどく沈み、読み終わったあと数週間憂鬱な気分になりました。
登校する途中の景色さえ灰色に見え、「須賀さんは作中の人物。須賀さんは架空の人物。須賀さんなんていない」と心に念じながら歩いていたら、八百屋さんの軒先の柱か何かに、思い切り頭をぶつけました。アホです。

その後数十年、何度かこの本のことをふと思い出しては憂鬱な気分になっていたのですが、つい先日「林真理子の名作読本」という文庫本をぱらぱらと覗いていたら、「女坂」について書いている章がありました。
そして、またしてもあのころの欝な気分を思い出しました。

しかし、あれからすでに30年近く。「女坂」とは果たしてどんな話だったか。
自分の記憶とは、多少違うのではないか。今読んだらまた別の感想を持つのではないか、と、思い切って図書館から借りて読んでみました。
30年近くを隔てての、トラウマ本「女坂」との再会です。
高校生の自分を頭にタンコブを作らせるほど悲しませた、裏主人公須賀さんとは、いかなる人物であったか。

以下、須賀さん視点のあらすじです。

美しく、大人しくて穏やかな性質の須賀さんは、15歳のときに母親と倫との間の取引によって、白川の家に売られてしまいます。
須賀さんの家はそのとき破産寸前で、母親は芸妓などの泥水家業に静めるよりは、と泣く泣く娘を妾奉公にだすのです。
幼い須賀はそんなこととは知らず、普通のご奉公だと思って倫に付いていきます。

15にして未だ月のものの無かった須賀の未熟な体は毀され、母親となることの出来ない体になってしまいます。
(現在の医学的に、そんなことはないでしょうと思うけれど、作中での倫はそう思っています)

「私はこの猫のようなもの」と、諦めとともに愛妾としての生活を甘受していた須賀のもとに、また新たな妾がやってきます。
須賀と同じように、己の意思とは関係なく親に売られてきた、由美という少女です。
須賀は自分と同じ境遇の由美にかえって心を癒され、姉妹のように親しく過ごすようになります。

20年近くの歳月が過ぎ、息子の嫁美夜と不倫関係にある行友は、美夜にあるいは唆されたのか、須賀ほど好きではなかった由美を捨ててもいいと思うようになります。

由美は倫の甥に下げ渡され、堅気の生活に戻ります。
陰気な猫のように大人しかった須賀は、飛び立つ鳥を仰ぎ見るように由美を羨み、人に祝福された結婚が出来ず、自分の知らぬところで一生日陰の身になることを運命付けられたのを悲しみ、「むしろ芸妓に売って欲しかった。辛いことがあったにしてももう少し自分は張りのある人間になっていたのではないか。からっと晴れた青空の下で太陽の光を浴びて、自由に怒ったり泣いたりできたろう」と苦しみます。

30も半ばを過ぎた頃、須賀に親しく言い寄ってくる若い書生が現れ、息子の嫁美夜に骨抜きにされている行友は、書生に須賀を下げ渡してもいいと言いますが、須賀の母から涙ながらに娘の行く末を頼まれたことを頭に留めている倫は、書生の軽薄さを見抜き、須賀と一緒になる気でもあるのかと、書生に詰め寄ります。
軽薄な書生は慌てて、「須賀さんは僕より10も年上だし、第一石女はごめんです」と、その後は須賀を遠巻きにするようになります。

その後須賀は持病である痔(!)で寝込みます。
九州男児の行友は須賀が若いころも、病気で寝込んだ彼女を見舞ったりはしたことがなく、かえって自分の世話係がいない不便さで苛立ちを募らせて、周囲に当り散らしている声が須賀の寝ている部屋にまで聞こえてきます。

実母は死んでしまったし、自分はただ一人だ・・と寂しさを募らせている須賀のもとに、日に何度も倫がやってきて、世話を焼きます。
普段は気難しくて煙たい存在の倫の顔には、いつもの警戒している色が消え、母親らしい愛情がたっぷり湛えられています。

手水場にいく須賀を介助してやると、須賀の通ったあとの畳廊下に、点々と血の跡が残っているのを、倫は見つけます。

「あさましい汚い感じがした。それに覆いかぶさるように言いようの無いあわれさが倫を捕らえた。倫は懐から紙を出すと、その血を拭った。血はいくつもいくつも小さな花のように畳廊下に滴っていた。倫はつくばって次々とその滴りを拭き取った。」

頑なだった倫と須賀が心を通わせるこの場面、好きです。
はじめ読んだときには、美人でまだまだ若い須賀さんが、何で痔出血?と不思議に思ったのですが、行友によって子どもの産めない体にされ、月経がまともにないという須賀さんの、経血の代わりとしての血の跡なのでしょう。
畳廊下に滴る血の跡は、須賀さんの置かれている惨めな境遇を、見事に描写しています。

この後の章では、倫の孫達が(異母兄妹)が愛し合いそうになるのを、倫が慌てて阻止したり、孫の一人が女中を孕ませたのの事態収拾に奔走したりで、須賀さんはあまり出てきません。

たまに出てくる彼女は、倫と火鉢を囲んで煙管をくゆらし、決してほかには漏らせない秘密の話をしたりと、まるで共同戦線をはった同士のようで、割と仲がよさそうに見えます。
思えば家に縛られて年老いていくのは、倫も須賀も同じです。
美夜が亡くなったことで、須賀さんも多少心穏やかでいられたのかもしれません。

倫の命があとわずかと行友から知らされたとき、
須賀は「どうしてでございます。そんなことはありますまい。あの丈夫な奥様が、そんな、そんな・・」とつぶやきます。
「行友は須賀の顔に目を移して、何かに驚かされたように顔を背けた」とあります。
この時の須賀さんの表情がどうであったかの説明はありませんが、間違いなく、悲しみを湛えた表情だったのだろうと私は思います。
同居する正妻と妾という関係であった倫と須賀の、複雑に入り組んだ感情に、行友ははじめて気がついたのでしょうか。


じっくりと再読して・・、文章の美しさ、風俗などの描写の巧さ、物語に引き込む筆力に舌を巻きました。
戦後に発表されて以来、半世紀読み続かれてきたことはあるなと思いました。
ただ、娯楽的ではないです。やはり読んでいて辛い。
いやだいやだと思いつつも、ページをめくる手が止まらないのです。

物語全体の感想について、ほかの登場人物について、また次に書きます。
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