三毛犬ジョニーへの伝言

旧「自堕落な蟻」 ブログ名変えました。ジョニーは昔飼っていた可愛いビーグルの名前です。

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おでんにちくわぶ

私は結婚して東京に来るまで、「ちくわぶ」というものを知りませんでした。


実家は栃木です。

ちくわぶは主に関東のもの、という説を目にしたことがありますが、北のほうとはいえ関東のはずの栃木では、あまりポピュラーな食材ではなかったように思います。

というより、私はスーパーで目にした事がなかったです。


東京に来て、初めて「ちくわぶ」なるものを食したとき、

・・・

「なんだこれ??茹での足らないうどんみたい。」と

その独得の、

あぐ・ん、とした歯ごたえ、独得の食感に、少々動揺したのです。


なんだこれ?

なんだこれ?

なんだこれ?


大昔流行したナタデ・ココと同じく、

妙~な食感というのは、意外とくせになるものです。


今ではちくわぶは子どもにも私にも、一番人気のおでんダネ。
ちなみに二番人気はもち巾着。

しかし、ちくわぶとは何なのか。

ちくわとは程遠いのに、なんで「ちくわ」ぶ、なのか。

うどんぶ、のほうがしっくりくるのに。

そもそもなんで「ぶ」なのか。


謎はつきません。


今、関西でもちくわぶはあるのでしょうか?


蛇足だけれど、すき焼きの割り下。

実家では肉や野菜を焼いてから、割り下を入れたのに、ここでは先に割り下を入れるんですよ。

すき焼きが「焼く」ものではなく、鍋物になったようで、いまだに馴染めないんですよね。














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就学検診

先週の木曜日、末っ子の就学検診がありました。

眼科耳鼻科歯科内科聴力検査知能検査面接・・・・。

ひとつの検査が終われば、また長蛇の列。


毎回毎回、なぜあんなに時間がかかるんだか・・。


特に長い蛇だった耳鼻科の行列。

「もう飽きた」「つまんない」「帰りたい」とぶつぶつ言う二女をなだめ、やっと次の次が診察の順番に。

ところが・・。


「おしっこ。我慢できない。もう漏れそう」

娘よ娘。

なぜお前はこのタイミングでそういうことを言うかな。

この空気の読めなさ。

いったい誰に似たんだ!

私だ・・・。


しょうがないので娘をトイレに連れて行き、再び蛇のしっぽに連なりました。


これで私たちのこの日の運命は決まりました。



娘はいい加減またされすぎて飽きたのか、検査にも時々まじめに答えず、順番はどんどん遅くなるばかり。


最後の面接が終わるころには、もうほかの親子は誰も見当たりませんでした。



しかし、

くたびれ果てて、とぼとぼと帰途に着く娘と私を不憫に思ったのか、校門の前で小学校の先生たちが一列になり、

「遅くまですいませんでした。お疲れ様でした!」と深々と頭を下げてくれました。


そうか。

紅白歌合戦だったら、私たち、大トリなのね。

サブちゃんね。


などとアホなことを思いつつ、もはや薄暗くなる中、夕飯の支度をするべく家路を急いだのでした。


就学検診は毎回厄介です。


でも今度こそ、もう終わり!

万歳!







秋の読了本

この秋はなんだか忙しく、今ひとつ気力もなかったせいか、あまり本を読みませんでした。

九月などは江戸川乱歩全集を一冊読んだきり。

私は俗な本読みで、歯ごたえのある難解な本を読むことはあまりないのですが、それでも日常の雑事に追われてまるで活字を追わない生活は、目の前の歯車をただくるくる回転させている哀しいねずみになったような気がして空しいです。

いつもの備忘録としてこの秋の読了本を。

特に気に入ったものにはを。


「江戸川乱歩全集 陰獣」

「生きてるだけで、愛」本谷有希子

「ゴッドブレイス物語」花村萬月

「乱暴と待機」本谷有希子

「二十四の瞳」壺井栄(再読)

「末世炎上」諸田玲子

「サグラダ・ファミリア(聖家族)」中山可穂

「ガラスの仮面の告白」姫野カオルコ

忙しい。

長女の七五三があり、長男の塾の面談があり、二女のお誕生日会があり、長女の学芸会があり、二女の遠足があり、長女の小学校の役員会があり、二女の幼稚園のイベント手伝いがあり、長男の期末テストがあり、長女の面談があり、病院の予約もあり、歯医者の予約もあり・・・と11月は行事が目白押しです。

手帳に予定を書き込むだけでは、こまめに手帳を開かないとしょっちゅうど忘れポカするので、カレンダーにも書き込んでいます。

働きながら子育てしている人には「なんだその程度のことで音を上げるなんて」と叱られそうですが、もともと怠け者の私は、もういっぱいいっぱいなんですよ。
普通の人より許容量、ないんです。。

体は大きくても、気が小さいんです。
すぐ疲れて、すぐ凹むんです。
はあ。。。

でも今日は(もう昨日か)、夫に子どもを見てもらって、「エクスペンダブルズ」を観に行きました。
ドルフファン仲間のZoo Keeperさんと一緒に観て以来、二回目。

昔のアクション映画の楽しさを目いっぱい詰め込んだような娯楽的映画です。名作です。

気分がすっと良くなりました。

映画は偉大だ。



「二十四の瞳」 壺井栄

この小説のあらすじをご存じない方はおそらくいらっしゃらないでしょう。

壺井栄の代表作で、昭和29年には高峰秀子主演で映画化もされていますし、その後何度もテレビなどで映像化されています。

小豆島に赴任してきたハイカラな若い女先生と、12人の子どもたちの心の交流と、その後起こった戦争による悲劇。
元生徒たちの死、悲運、大石先生の家族を襲う苦難。
艱難辛苦を乗り越えて、生き残った元生徒たちと大石先生との再会。

高峰秀子主演の映画は大ヒットし、海外でも高評価を得たようです。

今「二十四の瞳」で検索すると、小説よりも映画のレビューや解説が多くヒットします。

しかし、この小説、私は子どものころ・・おそらく小学生のころ読んだのですが、感動するどころか、なんだかものすごく後味が悪いと感じた記憶があるのです。
大石先生はいいけれど、生き残った生徒たちが好きになれなかったのです。
無論話の細部はすっかり忘れているのですが・・。

先日図書館の児童書のコーナーで本書を見つけたので、ほぼ三十年ぶりに再読してみました。


瀬戸内海べりの一寒村(作中では小豆島という名は出てきません)に赴任してきた若い大石先生。
若くハイカラな女先生に村の人々ははじめ嫌悪感を示すも、生徒の作った落とし穴に落ちて先生が足を怪我をする、という事件がおきたのをきっかけに、徐々に子どもたちとの距離を縮めます。

その後数年おきに話は飛び、母親の死によって学校を辞めさせられ、子どものうちから働かされる子がいたり、家が没落して身売りされる子がいたり、奉公先で肺病を病む子がいたり、5人のうち3人の男子が戦死したり・・といった悲しい出来事が淡々と平易な文章で綴られていきます。

反戦文学に違いないのでしょうが、あまり押し付けがましさを感じないのは、この淡いタッチの文章のおかげかもしれません。

大石先生の慈母のような優しさに、時おり涙がにじみました。


でも・・、12人の子どもたちの描写は、今ひとつだと思うのです。
彼らの個性があまり感じられないのです。
人生の裏街道をいくはめになる松江や富士子、奉公に出されるコトエ、盲目となって復員したソンキは印象に残るけれども、そのほかの子どもたちは誰がどのエピソードの持ち主だったか分からなくなり、しょっちゅう前を確認しました。

そして、みんな大石先生に対しては純真さを見せるのに、仲間であるほかの子どもに対して冷淡過ぎるのです。

母親の死で学校に来ることができなくなり、泣く泣く親戚の家へ連れて行かれることになった松江に対しても、家が没落して夜逃げするはめになった富士子に対しても。

その後親に売られて、どうやら遊女か芸者かの泥水稼業に堕ちているらしい富士子にいたっては、かっては机を並べた仲であるというのに、元同級生たちは富士子をさげすみ、面白おかしく話のネタにする始末。

普通は友達の悲運に胸を痛めるでしょう。
同性なら、なおさら。
荒んだ世相が彼らを変えたと解釈するべきなのでしょうか?
それにしたってあまりにも、あまりにも酷薄に過ぎるではないですか。

彼女たちの境遇に心を痛めるのは、大石先生ただ一人なのです。
まるで放射状の線のように、先生だけが子どもたち一人一人の身を案じ、悲しみをともにし、慈母のように見守るのです。
子どもたち同士の横のつながり、同期の友情はあまりないように見えるのです。


読み返してみて、思い出しました。

物語の終盤で、大家の婦人となっているミサ子。
初めてこの本を読んだとき、私は勝利者然としたこの女が嫌いでたまらなかったのです。

ミサ子は人生の裏街道を歩んでいるかっての女友達を、先生の前で平然と貶します。

戦争で盲目となり、実兄に疎まれながら身を小さくして生きている磯吉にむかって
「死ねばよかったのに」と平然と言い放ちます。

お金持ちの家の子だったミサ子は、頭の出来は良くなかったけれど、奸智に長けていたのか戦争を機にさらに財をなしているようです。
嫌な女です。

旧家の娘で働くすべをまるで持たなかった富士子と、もともとお金持ちのミサ子。
長じてからは、一見対象的な運命をたどるように思える二人です。

が、壺井栄に左翼的傾向やプロレタリア文学の影響があったとすれば、どちらもブルジョアの末路を書いたものと推測することもできるのではないでしょうか。

富士子は実際に零落し、ミサ子は子ども時代の面影のない、醜悪な大人になったのですから。

12人の子どもたちの中で、とりわけ悲惨な運命をたどる富士子、コトエ、松江の三人を除いては、どの子もあまり好きになれません。

大変な時代を生きてきたんだなとは思うけれども、あまり感情移入できないのです。

情けの薄い人間は、私は嫌いです。

でも、慈母のような大石先生に沿って物語を読むと、また風景が違って見えます。
転落していく子どもたちを救うことのできないくやしさ。
変貌していく子どもを叱責できないもどかしさ。
大石先生は、あまりに無力です。
教師の出来ることには限界があるのです。


「二十四の瞳」は、壺井栄のほかの作品と同じく、母性愛を描いた文学だと思いました。

この作品を楽しむなら、大石先生の視点、母の視点から物語を見るべきだったのです。

児童書として名高く、図書館で借りた本にも「教科書で出てくる本」とかいう銀のステッカーが貼ってあったけれども、どちらかというと大人向けじゃないのかなあ。

少なくとも私は、大人になってからのほうが、多角的にこの物語を見ることができました。
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