三毛犬ジョニーへの伝言

旧「自堕落な蟻」 ブログ名変えました。ジョニーは昔飼っていた可愛いビーグルの名前です。

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「女坂」円地文子その1

10代の頃は、手当たり次第に本を読みました。
学校図書館にあるものはもちろん、読書家だった姉の本棚からもよく文庫本を借りて読みました。

中学、高校のころに読んだ本というのは、案外大人になってからも記憶に残っているものです。

そして中には、読み手の意識の幼さからか、「なんという嫌なお話だろう」と必要以上のダメージを心に受け、それがいつまでも心の中に沈殿している・・といった類の「鬱本」があります。

この「女坂」もそんな一冊です。

明治初期、地方官吏白川行友の妻倫(とも)は、夫の命令で妾を探し、妻妾同居の生活をさせられます。
行友は小間使いや息子の嫁にまで手を出しますが、倫は一言も文句を言わず、心を鎧で固め、じっと耐えます。
彼女はさらに息子や孫の不功績に駆けずり回り、最後まで自分を犠牲にして、「家」を守るために生きるのです。
病に伏した倫は最期の瞬間、はじめて感情を剥き出しにして、終生彼女を苦しめ続けた夫にこう言い放ちます。
「私が死んでも、決してお葬式なぞ出してくださいますな。死骸を品川沖にでも持っていて、海へざんぶりと捨ててくだされば結構でございます」

高校生の私が可哀想過ぎる、何と哀れな、と感じたのは、主人公の倫よりも、倫が夫の妾にするために探してきた須賀という少女でした。

読者の自分が倫と会ったころの須賀とほぼ同じ、15歳(当時は数え年ではありますが)。
作中の同年代の少女の悲運に、心がひどく沈み、読み終わったあと数週間憂鬱な気分になりました。
登校する途中の景色さえ灰色に見え、「須賀さんは作中の人物。須賀さんは架空の人物。須賀さんなんていない」と心に念じながら歩いていたら、八百屋さんの軒先の柱か何かに、思い切り頭をぶつけました。アホです。

その後数十年、何度かこの本のことをふと思い出しては憂鬱な気分になっていたのですが、つい先日「林真理子の名作読本」という文庫本をぱらぱらと覗いていたら、「女坂」について書いている章がありました。
そして、またしてもあのころの欝な気分を思い出しました。

しかし、あれからすでに30年近く。「女坂」とは果たしてどんな話だったか。
自分の記憶とは、多少違うのではないか。今読んだらまた別の感想を持つのではないか、と、思い切って図書館から借りて読んでみました。
30年近くを隔てての、トラウマ本「女坂」との再会です。
高校生の自分を頭にタンコブを作らせるほど悲しませた、裏主人公須賀さんとは、いかなる人物であったか。

以下、須賀さん視点のあらすじです。

美しく、大人しくて穏やかな性質の須賀さんは、15歳のときに母親と倫との間の取引によって、白川の家に売られてしまいます。
須賀さんの家はそのとき破産寸前で、母親は芸妓などの泥水家業に静めるよりは、と泣く泣く娘を妾奉公にだすのです。
幼い須賀はそんなこととは知らず、普通のご奉公だと思って倫に付いていきます。

15にして未だ月のものの無かった須賀の未熟な体は毀され、母親となることの出来ない体になってしまいます。
(現在の医学的に、そんなことはないでしょうと思うけれど、作中での倫はそう思っています)

「私はこの猫のようなもの」と、諦めとともに愛妾としての生活を甘受していた須賀のもとに、また新たな妾がやってきます。
須賀と同じように、己の意思とは関係なく親に売られてきた、由美という少女です。
須賀は自分と同じ境遇の由美にかえって心を癒され、姉妹のように親しく過ごすようになります。

20年近くの歳月が過ぎ、息子の嫁美夜と不倫関係にある行友は、美夜にあるいは唆されたのか、須賀ほど好きではなかった由美を捨ててもいいと思うようになります。

由美は倫の甥に下げ渡され、堅気の生活に戻ります。
陰気な猫のように大人しかった須賀は、飛び立つ鳥を仰ぎ見るように由美を羨み、人に祝福された結婚が出来ず、自分の知らぬところで一生日陰の身になることを運命付けられたのを悲しみ、「むしろ芸妓に売って欲しかった。辛いことがあったにしてももう少し自分は張りのある人間になっていたのではないか。からっと晴れた青空の下で太陽の光を浴びて、自由に怒ったり泣いたりできたろう」と苦しみます。

30も半ばを過ぎた頃、須賀に親しく言い寄ってくる若い書生が現れ、息子の嫁美夜に骨抜きにされている行友は、書生に須賀を下げ渡してもいいと言いますが、須賀の母から涙ながらに娘の行く末を頼まれたことを頭に留めている倫は、書生の軽薄さを見抜き、須賀と一緒になる気でもあるのかと、書生に詰め寄ります。
軽薄な書生は慌てて、「須賀さんは僕より10も年上だし、第一石女はごめんです」と、その後は須賀を遠巻きにするようになります。

その後須賀は持病である痔(!)で寝込みます。
九州男児の行友は須賀が若いころも、病気で寝込んだ彼女を見舞ったりはしたことがなく、かえって自分の世話係がいない不便さで苛立ちを募らせて、周囲に当り散らしている声が須賀の寝ている部屋にまで聞こえてきます。

実母は死んでしまったし、自分はただ一人だ・・と寂しさを募らせている須賀のもとに、日に何度も倫がやってきて、世話を焼きます。
普段は気難しくて煙たい存在の倫の顔には、いつもの警戒している色が消え、母親らしい愛情がたっぷり湛えられています。

手水場にいく須賀を介助してやると、須賀の通ったあとの畳廊下に、点々と血の跡が残っているのを、倫は見つけます。

「あさましい汚い感じがした。それに覆いかぶさるように言いようの無いあわれさが倫を捕らえた。倫は懐から紙を出すと、その血を拭った。血はいくつもいくつも小さな花のように畳廊下に滴っていた。倫はつくばって次々とその滴りを拭き取った。」

頑なだった倫と須賀が心を通わせるこの場面、好きです。
はじめ読んだときには、美人でまだまだ若い須賀さんが、何で痔出血?と不思議に思ったのですが、行友によって子どもの産めない体にされ、月経がまともにないという須賀さんの、経血の代わりとしての血の跡なのでしょう。
畳廊下に滴る血の跡は、須賀さんの置かれている惨めな境遇を、見事に描写しています。

この後の章では、倫の孫達が(異母兄妹)が愛し合いそうになるのを、倫が慌てて阻止したり、孫の一人が女中を孕ませたのの事態収拾に奔走したりで、須賀さんはあまり出てきません。

たまに出てくる彼女は、倫と火鉢を囲んで煙管をくゆらし、決してほかには漏らせない秘密の話をしたりと、まるで共同戦線をはった同士のようで、割と仲がよさそうに見えます。
思えば家に縛られて年老いていくのは、倫も須賀も同じです。
美夜が亡くなったことで、須賀さんも多少心穏やかでいられたのかもしれません。

倫の命があとわずかと行友から知らされたとき、
須賀は「どうしてでございます。そんなことはありますまい。あの丈夫な奥様が、そんな、そんな・・」とつぶやきます。
「行友は須賀の顔に目を移して、何かに驚かされたように顔を背けた」とあります。
この時の須賀さんの表情がどうであったかの説明はありませんが、間違いなく、悲しみを湛えた表情だったのだろうと私は思います。
同居する正妻と妾という関係であった倫と須賀の、複雑に入り組んだ感情に、行友ははじめて気がついたのでしょうか。


じっくりと再読して・・、文章の美しさ、風俗などの描写の巧さ、物語に引き込む筆力に舌を巻きました。
戦後に発表されて以来、半世紀読み続かれてきたことはあるなと思いました。
ただ、娯楽的ではないです。やはり読んでいて辛い。
いやだいやだと思いつつも、ページをめくる手が止まらないのです。

物語全体の感想について、ほかの登場人物について、また次に書きます。
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