三毛犬ジョニーへの伝言

旧「自堕落な蟻」 ブログ名変えました。ジョニーは昔飼っていた可愛いビーグルの名前です。

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「女坂」円地文子その3

主人公倫(とも)は、自分の感情を抑え、夫の無理難題に文句を言わず従い、厳しく自らを律し、夫に変わって膨大の白川家の土地を管理し、女支配人(女主人ではなく)として君臨します。
30やそこらで、白川との夫婦生活は無くなっていて、しかも周囲もそれを知っています。
書生ごときに「あの人は他人じゃないか」とすら言われています。

内心の侘しさ、苦しさを決して表に出さず、心に鎧を固めて、家族が次から次に起こすトラブルの後始末に奔走します。
またこれが皆ロクデナシばかりで。特に異母兄妹同士であわや・・という展開には、安いメロドラマみたいでちょっと鼻白んでしまいました。

でも、晩年の倫が、家に向かう途中の坂を、雪に打たれながら登るシーンは、多くの人が心を打つ名場面として上げられています。

坂の途中、小さな家々・・しもた屋だったり八百屋だったり・・が倫の目に入ります。

   (引用)
同じような杏色の電灯の光は無限に明るく、惣菜の匂いはなんとも言えぬ濃やかな暖かさを嗅覚にうったえて来て、倫の心を揺さぶった。
幸福が・・・調和のある小さい、可愛らしい幸福が必ずこの家々の狭い部屋の燭光の弱い電灯のもとにあるように倫には思われた。
小さな幸福、つつましい調和・・結局人間が力限り根限り、呼び、狂い、泣きわめいて求めるものはこれ以上の何ものであろうか。

(引用終わり)

晩年の倫の絶望と侘しさが、胸に迫ります。

寒い夜の、他所の家の暖かげな灯火は、今でもなんだか幸せそうで、羨ましくみえるものです。

小さな家の優しげな灯火に、自分の得ようとして得られなかった幸せを、倫は投影したのです。

(実際には、小さな家には小さな家の、貧乏には貧乏の修羅があると思うのですが)


このすぐ後に倫は病み伏し、凄絶な言葉「死骸は海へざんぶりと捨ててください」を、ほとんど快げに吐くのです。


この「ざんぶり」という言葉は「女坂」でもっとも印象に残るものですが、倫は自分の一生を惨めなものだったと悔い、自嘲的に言ったのか、長年溜めに溜めた呪詛、怒りを始めて夫に対してぶつけたのか、あるいは自分の守り続けてきた家を厭い、「白川の墓になんか入りたくない」という意味で言ったのか、私の中でも解釈が分かれます。


しかし、私は倫を、背表紙の説明書きにあるような、「全てを犠牲にして家という倫理に殉じ、真実の愛を知ることの無かった女の一生の悲劇と怨念」といった、「悲劇の女」だとは思わないのです。

時を経るごとにサディスティックな暴君となっていく夫の白川行友。
私は白川をこのような男にしてしまったのは、倫なのではないかと思わないでもないのです。

白川が書記官であったころ、自由党の秘密集会を襲撃して怪我を負ったとき、白川はまず倫の元へ行き、あらぶる感情を処理するかのように倫を抱きます。
これが本書で唯一書かれる、夫婦生活です。
倫は須賀を傷つけることは出来ないので、手軽な自分で欲望をすましたのだと、屈辱に感じます。

自由民権運動を弾圧してきた白川は、やがて時代が変わり、今度は自分が復讐されるのではないか、と恐怖します。
そのとき白川は倫に対してこういう思いを抱きます。

(引用)
白川は弱くなった心を倫に抱きかかえて貰いたいと思う。それは金魚や小鳥のように賞玩している須賀や由美にわけられようのない感情で、自分よりも強い逞しい意志によって生きている倫だけが撫でさすり、血を吸ってくれる傷なのである。
しかしそれは白川の描き出す母の幻影が倫にまつわっているだけで現実の倫にはもう夫の中にそんな微妙な精神の傷を探し出すほどの敏感な愛情はとうに灰となりさめ果てていた。

(引用終わり)

この時倫の夫に対する愛情が冷め切っているのは無理も無いことなのですが。

しかし、白川にとってまだ倫は、ほかとは別格の強い存在であり、唯一弱音を吐けるあいてではなかったのでしょうか。
倫に包み入れてもらうことがかなわず、彼女の堅牢な鎧に拒絶された白川は、ますますサディスティックな傾向を募らせていきます。

いかに白川が九州男児で、女に対して支配的傾向のある男だとしても、一対の男女として、ともに家の中心として、倫は早いうちに、もっと本音をさらけ出してもよかったのではないでしょうか。

美夜のように、自分の欲するところに貪欲に、殴られても、罵られても、どんなにみっともなくたって、自分の幸せのための戦いをするべきだったのではないでしょうか。

そうしたら、もしかして白川はこのような酷い男になってはいなかったのかもしれないと、私は思うのです。

「家」の核は夫婦です。家の核となるべき一対の夫婦の関係が破綻し、片方が鎧にこもってしまった「家」など、ただの形骸に過ぎぬのです。幸福になりようがないのです。

「できた人」にならなくてもいい。人に良い妻だと思われなくともいい。
もっと早くに倫は、夫に本音をぶつけるべきでした。

彼女が初めて本音をさらけだした「ざんぶり捨てて」の遺言は、あまりにも遅すぎました。

やはり、最期の言葉は、自分のこれまでの生き方に対する後悔なのでしょうか。




しかし、「女坂」に登場する男達は、なぜこんなに悪い男ばかりなのだろうかと不思議に思います。
いかに明治が女性にとって生きにくい時代だったとはいえ、男達はこんなに悪人と阿呆だらけではないでしょう。
白川行友は官憲として悪行の限りを尽くして財を成し、時代の潮目が変わるとさっさと引退して豪邸に篭り、家の女達をサディスティックにいたぶるかのように、暴君として振舞います。
白川と倫の息子、道雅は我侭で横暴で、まったく働きもせず親の財産を蕩尽するだけの、どうしようもない人物です。

「女坂」の男達の魅力のなさは、一体どうしたことでしょう。作者の男性観なのでしょうか。

林真理子さんは、「倫はどうあっても白川行友を愛していたから、無理難題に耐えてきたのだ」と解釈されているのですが、倫は白川のどういうところに愛情を感じていたのでしょうか?首を傾げてしまいます。

もしこの作品に、若いころの白川と倫の愛情のあったころの幸福な生活の描写が少しでもあり、それが倫のその後の人生を照らしていたのだ、とでもいうのならまだ分かるのですが。

私は倫が長く絶え続けたのは、これまでの自分の犠牲と献身の人生を省み、このまま何の見返りもなく、自分の人生を不幸なままで終わらせてなるものか、という意地だったのではないかと感じました。
行友本人への愛ではなく、忍従一筋だった人生を無駄にしてなるものか、という、これまでの自分の人生への執着だったのではないかと。

倫はとても厳しく近寄りがたく、周囲に恐れられているけれども、実は面倒見がよく、情けの深い人です。
それを表に出すことが出来なかったところに、彼女の最大の不幸があるように思います。
女性の持つまろやかさ、おだやかさに欠けているのです。
内側に優しさを秘めているのに、実に損な性分です。


高校生の時に読んだこの本が、あまりにも長く心に重く沈殿しているので、トラウマ(?)と向き合い、蘇る憂鬱のピリオドを打つべく、再トライして考察してみました。

高校生には早すぎたなあと思うけれど、十代の気力があったからこそ読破できたのだろうと思います。
中年となった今の私は、日々のめまぐるしい生活の中での、ささやかな娯楽、癒しとして本を読みます。
こういう辛い話の本を手に取る気力は、今の私にはもうありません。

品格ある文章、物語に引き込む筆力は素晴らしいものですが、私のように娯楽的な小説を好む人は好きになれない小説かもしれません。
しかし明治の風俗や昭和の文学について学ばれたいという方、本好きの方には、ぜひご一読をお勧めします。

もし、この長い独り言のようなレビューをここまで読んでくださった方がおられましたら、「女坂」のモデルらしき女性とフィクションについて、先日また長々と書きましたので、どうぞご笑覧下さい。

「女坂」円地文子 モデルと虚構その1
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