三毛犬ジョニーへの伝言

旧「自堕落な蟻」 ブログ名変えました。ジョニーは昔飼っていた可愛いビーグルの名前です。

「ネコババのいる町で」 瀧澤美恵子

わずか三歳で、ロスアンジェルスから一人で日本に送られた恵里子。実の母に捨てられたショックで一時的な失語症に陥ってしまうが、ある日、隣の「ネコババ」の家で突然言葉を取り戻す。生みの親よりも「本当の家族」となった祖母と叔母に育てられた多感な少女が観た人間模様を描く芥川賞受賞の表題作ほか二篇。
(アマゾンの紹介文より)


主人公の恵理子の人生は、苦難から始まります。
彼女の奔放な実母は、アメリカ人の夫との新生活に連れ子の恵理子が邪魔になり、たった三歳の恵理子を荷物のように飛行機で日本の母(恵理子の祖母)の元へ送りつけます。三歳の子をたった一人で。
日本の祖母と叔母はいきなりやってきた日本語を話せない幼児に戸惑いますが、それなりに生活が安定してきた二年後に、実母は唐突にアメリカに恵理子を送り返せ、といいます。
でもすでにアメリカの新しい家族の中に自分の居場所を見つけられなかった恵理子は、彼女を疎ましく思ったらしい実母に、たった二か月でまた荷物のように日本に送り返されてしまいます。

五歳の恵理子はショックから失語症になってしまいます。
ネコババとそのおじさん(旦那さん)は、恵理子を養女に貰おうかと思うほど可愛がっていましたが、彼女に過度に構うことなく、かといって放任もせず、ちょうどネコババの家で飼われている猫たちと同じように、恵理子に接します。

恵理子が言葉を取り戻すきっかけは、祖母宅の隣のネコババの家で、猫の死骸を見つけたことでした。

最初は迷惑がっていた祖母や叔母も、次第に親しみ、奇妙な三人家族の生活を送るようになります。
恵理子より17上の叔母は、美人なのに男運が悪く、それを恵理子のせいだと八つ当たりしたりと、かなり子供っぽいところのある女性です。
この叔母と恵理子は、まるで年の離れた姉妹のようです。

高校生になった恵理子は意を決して実父に会いに行きますが、冷たく迷惑そうに追い返されてしまいます。
恵理子はそれでも自分を憐れんだりしません。父も母も、会うことがなくても一緒に暮さなくとも、ただ「いるだけ」でいい、というのです。


平成元年の芥川賞受賞作です。発表されてすぐに読んだ記憶があります。
私は猫好きなので「ネコババ」というタイトルに惹かれたのです。

しかし、猫がたくさん出てくる癒し系のお話かとおもいきや、とても気の滅入る小説でした。
お話自体は主人公の周囲に人たちとの関わりや精神的成長やを描いていて、決して重苦しいものではないのですが、主人公の実母の恵理子に対する仕打ちが、どうにも許しがたかったのです。腹立たしくてどうしようもなかったのです。

読後20年たっても、この小説の事をふっと思い出しては腹を立てていました
私のトラウマ小説の一つです。
いまひとつ記憶に残りにくい芥川賞作品の中にあって、それだけ印象深かったということではありますが。


いま読み返してみると、主人公恵理子について、また違った印象を受けました。

子供は親を選べません。この母の子に生まれてしまったのは、恵理子にとって不運極まりないものです。

でも、子供の世界は成長するにつれてどんどん広がっていきます。
友達であったり、先生であったり、ネコババのような近所の人たちであったり、彼女に関わるに人たちも増えていって、生まれついての「ハズレクジ」だった親の占める面積は、彼女の中でどんどん小さくなっていったはずです。

恵理子が作中で繰り返し「自分は不幸じゃない」というのは、強がりではなく本心からでしょう。
血の繋がりのない(あるいはあっても親より薄い)周囲の人たちとの関わりで培ってきた信頼や絆が、彼女のバックボーンにはあるのだと思います。

親がいない=不幸、というのは、思い込みにすぎません。


成長した彼女がネコババの甥の息子と結婚する時、祖母から知らされたらしい(主人公とは没交渉)アメリカの実母は、結婚式には身内が身に付けていた青いものを付けると幸せになれるというから、と恵理子にトルコ石のイヤリングを送りつけてきます。

以前読んだときは、私はここで、作中の人物である恵理子の実母に、ものすごく腹を立てたのです。
ほったらかしにしておきながら、大人になったころに存在をアピールする厭らしさ。無神経さ。

私が恵理子なら、「リアル」の高橋君みたいに、「おやおや、まるで親みたいなことをいいますね」と的確無比な嫌味を書き添え、送り返してやりたい。。
大体サムシング・ブルーは、イヤリングなどではなく、もっと目立たないものにするのが普通だし。
長年ほったらかしにしたお詫びの気持ちが僅かでもあるなら、トルコ石などという安価な宝石ではなく、ブルーダイヤだろ(不吉か)。
この母親の天性の鈍さに、何か一矢報いてやればいいのに、と。

でも恵理子は叔母さんの用意してくれた衣装に合わないから、と身に付けず、その先も一度も使わず、そのトルコ石イヤリングをしまいこんでしまうのです。
イヤリングは単に、そういえば一応母親がいたな、と確認するだけのためのものなのです。
実にあっさりと、このみみちい贈り物を、スルーするのです。

今読み返して思います。
「復讐したい」「相手を傷つけたい」と恨みに思うこと、そこまでいかなくとも怒りの感情を持ち続けるのは、裏を返せば自分に関心を持ってほしい、と、相手の愛情を乞う気持ちが心の隅にあるからです。

恵理子は、もうとっくに心の中で母親を捨てているのです。
恵理子には自分を育ててくれた家族や、自分の子のように目をかけてくれた隣人もいる。
成長していく上で、諸々の出来事を客観的に見る目も養ってきた。

もはや実母は彼女にとって何の関心もない人間なのです。
恨みごとをいうほど彼女に愛情を持っていない。怒りを持ち続けるほど不幸な育ち方をしてはいない。

でも自分が親になった今思います。
恵理子にその意識はなくとも、多くの親にとってこれは、これ以上はないほどの復讐です。
自分のことしか考えないこの実母は、気付かないのかもしれないけれど。

叔母さんが死んで「天涯孤独になった」と感じた恵理子は、終盤アメリカにいる実母に子供と夫を連れて会いに行ってみようか、とふと思います。
相次ぐ肉親の死で、心が弱くなっていたからでしょう。

でも物語の先を勝手に推測するなら、恵理子は決して実母に会いに行くことはないと思います。
彼女にはもう、新しい家族がいるのです。
「外れクジ」だった生まれた家庭と違い、自分で育て、築き上げていく家庭です。
縁戚となったネコババもいます。
実母に救いを求めるほど、彼女の将来は不幸なものにはならないはずです。


あと気になる点といえば

猫の話だと思って手に取った人、きっと私だけではないですよねw
それはさておき、もっとネコババを話に絡ませて欲しかったです。

ネコババの出番が少なくて、ちょっと「タイトルに偽りあり?」と思ってしまいました。

叔母さんよりも、むしろ血の繋がりのない隣人であるネコババを、もっと主人公の成長に絡ませてほしかったです。

淡々と平易な文章で物語が進み、祖母、叔母さん。ネコババ、ネコババの旦那さん、実父・・・といろんな人が主人公とかかわっていくのですが、いま一つピントが合っていないというか、曖昧な印象を受けてしまうのも確かです。

でも、印象深い芥川賞受賞作品です。

ネコババのいる町で (文春文庫)ネコババのいる町で (文春文庫)
(1993/03)
滝沢 美恵子

商品詳細を見る







スポンサーサイト

管理者にだけ表示を許可する